先日、Xにこんな投稿をしたところ、思いのほか大きな反響がありました。というか完全に、プチ炎上と呼んでいい状態になりました。
たしかに、「自分の選択だけは市場から自由なんだと思い込んで」しまえば、逆に市場からいいようにコントロールされてしまうでしょうから、私たちは常に自分の選択に、どれほど市場からのコントロールが効いているのかを自覚することは重要です。
でもかといって「高度な資本主義社会に生きてしまっている以上、市場の完全な外に出ることは、おそらくもう誰にもできません。」というのもまた極論ではないでしょうか?
たしかに「完全」なんて基準で切り分ければ「どうせ全部消費」も「最小限の消費」も同じことになってしまいます。
でも、そのような切り分けは、人間の実際の生活からは乖離した、概念としての切り分けです。
生活のほぼ100%が消費のみで成り立つ生活と、99%が生産(創造)で1%のみが消費で成り立つ生活は、まったく別の種類の生活です。
問題は自分の生活の中に消費があるかないか、市場との接点があるかないか、という点にあるのではなく、自分の生活の「中心」が消費にあるのか否かという点ではないでしょうか?
そのように考えた場合、消費社会の真っ只中にいながらも、自分の生活の中心を「消費」に置くのではなく、「生産」もしくは「創造」におくことによって、私たちは大量消費社会と、それに基づく市場とは、一定程度距離をとることは十分に可能だと思います。
コメントありがとうございます。ここまで丁寧に読み込んでいただけたこと、とても嬉しく思いながら拝読しました。
まず、大部分は僕もまったく同じ考えです。「どうせ全部消費なんだ」と開き直るのは違うと本文でも書いた通りですし、消費が生活のどこに、どれくらいの比重で置かれているかによって、暮らしの手触りがまったく別物になるというのも、その通りだと思います。「完全な外には出られない」という一文は、程度の差を無化するためのものではなく、「市場からの脱出」をゴールの位置から外して、代わりに「自覚」を日々の実践に据えるための前提として置いたつもりでした。ただ、極論に読めてしまったのだとしたら、それは僕の言葉足らずです。
そして、「生活の中心が消費にあるのか、生産・創造にあるのか」という軸は、本文では十分に扱えていなかった大事な視点だと思います。ありがとうございます。
そのうえで、ひとつだけ。僕が本文でいちばん書きたかった不安は、実はまさにそこから始まるんです。「自分の生活の中心は創造にある。だから市場とは一定の距離が取れている」——その実感こそが、いまの市場でもっとも精巧に商品化されているものなのではないか、と。創造のためのスマホやPCのような道具も、学びの場も、発表のためのプラットフォームも、そして「消費者ではなく作り手である」という自己像そのものも、市場は喜んで売ってくれます。つくることが本物の豊かさであることと、「つくる側の自分」という物語が記号として流通してしまうことは、残念ながら両立してしまうんですよね。
だから、一定程度の距離が取れること自体は、僕も本当にそう思います。ただその距離は、「創造を中心に置いたから確保できた」と安心した瞬間に、本文で書いた「市場が用意してくれた特等席」に変わってしまう気がしていて。距離が本物でいられるのは、その距離を絶えず疑い続けている間だけなのではないか、それが、この文章で書きたかった「絶え間ない自覚」でした。
生産や創造を生活の中心に据える理想的な生き方そのものには、僕も深く共感します。だからこそ、その場所からもう一度「この実感はどこからやって来たのか」と問い続けたいなと。考えを一歩先に進めるきっかけをいただき、本当にありがとうございます。素晴らしいコメントに感謝いたします。
そうですね、私の書き方も少し誤解を生む書き方でした。
私がここで書いている「生産」(創造)を中心とした生活というのは、何も文章や絵などの作品を生み出す「生産」(創造)のみを指しているのではなく、自分の中に可能性としては存在していながらも、現実世界の中にはまだ実現することができていない様々な自分の能力を、現実世界の中に「生み出す」力を、「生産」(創造)として書きました。
たとえば楽器の演奏をする能力や、泳ぐ能力、人を愛する能力などの実現も、この生産的(創造的)活動のうちに入ります。
そしてこのような生産(創造)を自分の生活の中心としようとした場合、どうしても市場とは一定の距離を置かなければ、このような生活は実現できません。
なぜなら、消費中心の生活は、このような生産性(創造性)を奪ってしまうからです。
ですから、このような意味で生産性(創造性)を生活の中心にしようとした場合、「創造を中心に置いたから」と、安心することもなければ、市場との距離を「確保できた」と安心することも、あり得ません。そこには常に絶え間ない自覚が要請されます。
AppleのThink Differentの広告が代表的なように、Appleはたしかテクノロジーを単に使うだけでなく、消費者が創造する主体になることをアピールしてきたように思います
まさに大多数は創造したいんだけどできない本心を察してこのような広告を選んだんだとすると、本当に自分らしい消費をすることの難しさを感じました
日々何気なくおこなっている消費を改めて見直してみたいと思います
ゆうとさん、コメントありがとうございます。Think Differentは、まさにその先駆けだったと僕も思います。電通や博報堂などの広告業界の人たちが、いまだにあれを伝説のCMとして語り続けるのは、モノではなく「創造する主体としての自分」を売るという発明が、それほどまでに強力だったからなのでしょうね。
そして、そのあとに続いたガジェットブロガーのアフィリエイト記事や、YouTuberたちのコンテンツも、構造としてはまったく同じだったように思います。創造のための道具を買った人が、今度は「これを買えば、あなたも作り手になれる」と語る側に回っていく。いま数多あるAIスクールや、そもそもAIサービスそのものもまったく同じで、入れ子構造というか、ねずみ講のような連鎖なんですよね。売られているのはいつも、「創造性高く、つくる側の自分」という物語のほうで。
だから、インターネットに繋がった瞬間に、「創造性」という名の消費欲を掻き立てるこの鉄の鎖、鉄の檻のようなものからは、僕らはもう決して逃れられないのだろうなあと思います。ただ、同じ檻の中にいても、檻の存在に気づいていることと、気づかないままでいることのあいだには、きっと小さくない違いがあるはずですし、それがしっかりと伝わっていてとても嬉しいです。
たしかに、「自分の選択だけは市場から自由なんだと思い込んで」しまえば、逆に市場からいいようにコントロールされてしまうでしょうから、私たちは常に自分の選択に、どれほど市場からのコントロールが効いているのかを自覚することは重要です。
でもかといって「高度な資本主義社会に生きてしまっている以上、市場の完全な外に出ることは、おそらくもう誰にもできません。」というのもまた極論ではないでしょうか?
たしかに「完全」なんて基準で切り分ければ「どうせ全部消費」も「最小限の消費」も同じことになってしまいます。
でも、そのような切り分けは、人間の実際の生活からは乖離した、概念としての切り分けです。
生活のほぼ100%が消費のみで成り立つ生活と、99%が生産(創造)で1%のみが消費で成り立つ生活は、まったく別の種類の生活です。
問題は自分の生活の中に消費があるかないか、市場との接点があるかないか、という点にあるのではなく、自分の生活の「中心」が消費にあるのか否かという点ではないでしょうか?
そのように考えた場合、消費社会の真っ只中にいながらも、自分の生活の中心を「消費」に置くのではなく、「生産」もしくは「創造」におくことによって、私たちは大量消費社会と、それに基づく市場とは、一定程度距離をとることは十分に可能だと思います。
コメントありがとうございます。ここまで丁寧に読み込んでいただけたこと、とても嬉しく思いながら拝読しました。
まず、大部分は僕もまったく同じ考えです。「どうせ全部消費なんだ」と開き直るのは違うと本文でも書いた通りですし、消費が生活のどこに、どれくらいの比重で置かれているかによって、暮らしの手触りがまったく別物になるというのも、その通りだと思います。「完全な外には出られない」という一文は、程度の差を無化するためのものではなく、「市場からの脱出」をゴールの位置から外して、代わりに「自覚」を日々の実践に据えるための前提として置いたつもりでした。ただ、極論に読めてしまったのだとしたら、それは僕の言葉足らずです。
そして、「生活の中心が消費にあるのか、生産・創造にあるのか」という軸は、本文では十分に扱えていなかった大事な視点だと思います。ありがとうございます。
そのうえで、ひとつだけ。僕が本文でいちばん書きたかった不安は、実はまさにそこから始まるんです。「自分の生活の中心は創造にある。だから市場とは一定の距離が取れている」——その実感こそが、いまの市場でもっとも精巧に商品化されているものなのではないか、と。創造のためのスマホやPCのような道具も、学びの場も、発表のためのプラットフォームも、そして「消費者ではなく作り手である」という自己像そのものも、市場は喜んで売ってくれます。つくることが本物の豊かさであることと、「つくる側の自分」という物語が記号として流通してしまうことは、残念ながら両立してしまうんですよね。
だから、一定程度の距離が取れること自体は、僕も本当にそう思います。ただその距離は、「創造を中心に置いたから確保できた」と安心した瞬間に、本文で書いた「市場が用意してくれた特等席」に変わってしまう気がしていて。距離が本物でいられるのは、その距離を絶えず疑い続けている間だけなのではないか、それが、この文章で書きたかった「絶え間ない自覚」でした。
生産や創造を生活の中心に据える理想的な生き方そのものには、僕も深く共感します。だからこそ、その場所からもう一度「この実感はどこからやって来たのか」と問い続けたいなと。考えを一歩先に進めるきっかけをいただき、本当にありがとうございます。素晴らしいコメントに感謝いたします。
そうですね、私の書き方も少し誤解を生む書き方でした。
私がここで書いている「生産」(創造)を中心とした生活というのは、何も文章や絵などの作品を生み出す「生産」(創造)のみを指しているのではなく、自分の中に可能性としては存在していながらも、現実世界の中にはまだ実現することができていない様々な自分の能力を、現実世界の中に「生み出す」力を、「生産」(創造)として書きました。
たとえば楽器の演奏をする能力や、泳ぐ能力、人を愛する能力などの実現も、この生産的(創造的)活動のうちに入ります。
そしてこのような生産(創造)を自分の生活の中心としようとした場合、どうしても市場とは一定の距離を置かなければ、このような生活は実現できません。
なぜなら、消費中心の生活は、このような生産性(創造性)を奪ってしまうからです。
ですから、このような意味で生産性(創造性)を生活の中心にしようとした場合、「創造を中心に置いたから」と、安心することもなければ、市場との距離を「確保できた」と安心することも、あり得ません。そこには常に絶え間ない自覚が要請されます。
AppleのThink Differentの広告が代表的なように、Appleはたしかテクノロジーを単に使うだけでなく、消費者が創造する主体になることをアピールしてきたように思います
まさに大多数は創造したいんだけどできない本心を察してこのような広告を選んだんだとすると、本当に自分らしい消費をすることの難しさを感じました
日々何気なくおこなっている消費を改めて見直してみたいと思います
ゆうとさん、コメントありがとうございます。Think Differentは、まさにその先駆けだったと僕も思います。電通や博報堂などの広告業界の人たちが、いまだにあれを伝説のCMとして語り続けるのは、モノではなく「創造する主体としての自分」を売るという発明が、それほどまでに強力だったからなのでしょうね。
そして、そのあとに続いたガジェットブロガーのアフィリエイト記事や、YouTuberたちのコンテンツも、構造としてはまったく同じだったように思います。創造のための道具を買った人が、今度は「これを買えば、あなたも作り手になれる」と語る側に回っていく。いま数多あるAIスクールや、そもそもAIサービスそのものもまったく同じで、入れ子構造というか、ねずみ講のような連鎖なんですよね。売られているのはいつも、「創造性高く、つくる側の自分」という物語のほうで。
だから、インターネットに繋がった瞬間に、「創造性」という名の消費欲を掻き立てるこの鉄の鎖、鉄の檻のようなものからは、僕らはもう決して逃れられないのだろうなあと思います。ただ、同じ檻の中にいても、檻の存在に気づいていることと、気づかないままでいることのあいだには、きっと小さくない違いがあるはずですし、それがしっかりと伝わっていてとても嬉しいです。