最近、よく思うのは、言語化力とか解像度を高めるとか、そうやって何かを突き詰めていくという行為は、案外幼稚な行為なんじゃないか、と。
記事を読んで、いつか本で読んだ、「教養のある人は、世界の複雑性を知るつれて、どの角度から見るかによって正解が変わることも思い知るため、知的謙虚さを持って学び続けている」といった内容を思い出しました。
様々な葛藤を抱えながらも知的探求を続ける姿勢は、忘れないようにしたいと思いました。
違和感を感じていらっしゃるのは、問題と見られる事象に名前をつけることによる、単純化と思考停止、判断停止状態のように感じました。
それは、むしろ言語化の粒度の問題で、そうした単純な境界線からこぼれるものを掬い上げていく、精度の高い輪郭線を与えていこうとするのも、別の粒度の言語化かなと思います。
「わかる」とは「分ける」ことでもある、という視点が印象に残りました。
私も仕事柄、言葉で整理することを大切にしていますが、ときどき整理しすぎて世界のほうが痩せてしまう感覚があります。
引いた線に居着かないこと。
その一文を読んで、少し背筋ではなく思考のほうが伸びました。
記事を読んで、いつか本で読んだ、「教養のある人は、世界の複雑性を知るつれて、どの角度から見るかによって正解が変わることも思い知るため、知的謙虚さを持って学び続けている」といった内容を思い出しました。
様々な葛藤を抱えながらも知的探求を続ける姿勢は、忘れないようにしたいと思いました。
違和感を感じていらっしゃるのは、問題と見られる事象に名前をつけることによる、単純化と思考停止、判断停止状態のように感じました。
それは、むしろ言語化の粒度の問題で、そうした単純な境界線からこぼれるものを掬い上げていく、精度の高い輪郭線を与えていこうとするのも、別の粒度の言語化かなと思います。
「わかる」とは「分ける」ことでもある、という視点が印象に残りました。
私も仕事柄、言葉で整理することを大切にしていますが、ときどき整理しすぎて世界のほうが痩せてしまう感覚があります。
引いた線に居着かないこと。
その一文を読んで、少し背筋ではなく思考のほうが伸びました。